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2011/02/09

3館レポート



2011年1月22日(土)、東京で日本民藝館、東京都写真美術館、東京都現代美術館の3館を訪れる機会に恵まれた。以下、雑多ながらその感想を記したい。


東大前 日本民藝館

 日本民藝館はその名の通り、民藝運動の総本山(?)とも言える場所。建物自体が民藝のあり方を示すような木造りの古民家で、靴を脱ぎ床板をきしませながらの鑑賞は他ではない情感に満ちたものであった。



まず目に飛び込んできたのは北国の着物である。縫い目の細かさに対して、着物それ自身は重厚に出来ている。それもそのはず、これは漁師が海に出る際に着用するものなのだ。北風や冷たい水しぶきに耐えうる頑健さを備えつつも、繊細なスティッチの運びや模様の反復性は、マクロに見るとミニマルアートを観ているかのように錯覚してしまうほど。着るものにこだわるのは全世界各国共通であろうが、日本民族はやはり細やかなお洒落を好むものであるらしい。

ある着物の幾何模様は、イスラム文化圏の建築によくある複雑で嘔吐感を催させるものではなく、デザインとして着物それ自体を駄目にしない繊細な四角形が連なっていた。このあたりの引くところは引くデザインセンスは秘すれば花、の日本的だと言えるかもしれない。

陶器にも印象的なものが多くあったが、今回は瀬戸の古陶が多く展示されていた。真っ白なセトモノ、のイメージからは遠く離れる黄色みを帯びた地肌の石皿は、その無骨な存在感に魅力を感じた。こうした繊細過ぎない、生命感が表出したような道具が柳宗悦の好みなのではないか。日常の機能に根差した道具が民藝の本質であろうが、その実、柳の好みは無骨さをたたえた生命力あふれる道具なのだろう。このことは生命の豊穣を意味する縄文の石偶が展示されていたことにも伺える。

ある種のクラゲを思わせる「緑釉指描文 大鉢」のダイナミックさもこれを示しているだろう。唯一の無念は、河井寛次郎の陶芸を観ることができなかったことだが、春からはまとまった民藝の展示があるようなので、観る機会はすぐにあるだろう。

在オシャレなカルティエ 東京都写真美術館

収蔵作品展 [かがやきの瞬間]スナップショットの魅力
日本の新進作家展vol.9 [かがやきの瞬間]ニュー・スナップショット




 所変わって写真美術館。写真については様々な気付きがあったが、簡潔に記したい。まず驚かされたのはラルティーグのスナップ写真。あれだけ洗練されたスナップ写真が1913年に早くも撮られていたということに、今さらながら気付かされた。スナップ写真はカルティエ・ブレッソンから始まったわけではないのだ…。

アヴェドン、エヴァンズ、ウィノグランドといった名手の写真には、スナップという瞬間の芸術が永遠にまで高められるような、記録性と刹那性の共存をみた。優れた写真は少なからずこれを満たしていると思う。Ryan McGinleyという写真家を始めて知ったが、スポーツ写真を競技現実から引き離すその手法には恐れ入った。私自身、自転車レースの写真を撮っていることもあって、参考にしたいと感じるものだった。木村伊兵衛賞作家の鷹野隆大のコメントに、私の現在の問題意識と重なるところがあったので引用しておきたい。

"日々の暮らしのなかで、何となく苛立ち、何となくみないようにしている何かがあって、その正体がこの「カスババ」であったというのはひとつの発見だった。"

 鷹野は何でもないのになぜか気にかかってしまう場所、観光的にも生活的にも何の意味もないそんな場所を「カスババ」と名付け撮影している。その写真の多くは何ともない、国道沿いの風景である。しかし場の魅力とでも言おうか、なぜか気にかかる場所、吸引力のある場所というのはカメラを持って街を歩いたことのある者ならば誰でもが覚えがあるはずだ。こうした潜在意識に埋もれそうな場を、カメラを用いて現実に引っ張り出す、これはまさに写真家の仕事であると感じた。

不可解性を楽しめ 東京都現代美術館

東京アートミーティング トランスフォーメーション



 東京駅からタクシーで現代美術館へ。面白いほどに、ここでの「美」の基準が前2館とは変っていた。というよりも、「美」とは何か?そんな定型にはめて物事を見てはいないかい?という問いそのものが現代美術の要であると再実感した展示だった。個々の作家で言えば、ヤン・ファーブルの頭像に動物の角が合体した作品や、石川直樹の極限の世界の無(禅と言うと陳腐になるが…)を感じさせる作品は気に入った。

が、個人的に言えば、私はあまり現代美術というものが好きにはなれない。どこか難解で、メッセージ性が強くて、そしてわかったような顔をして観なくてはいけない部屋の広い間取りなど、どうにも落ち着くところがないのである。この落ち着かなさは現代美術のたくらみであるとも言えるだろう。けれどもそれを知っていてでも、私は純粋に美しい風景画を長い時間かけて(目の前で、離れた椅子に座って、あるいは斜めから…)観る方を好む。美の基準に閉じこもった狭い世界に生きていると言われようとも、絶対的な「美」を提示する事無くただ思想的なメッセージ、曖昧さに逃げるような現代美術の作品は好きになれないのだ。



「美」がひとつの神話に過ぎないことが(神話に、「過ぎない」という言葉を続けるのにも違和感があるが…)暴かれてしまった現代において、新たにそれを提示することはほとんど不可能にすら思える。しかしアートが美術であるのであれば、どこかに美しさを感じさせる何かを、作品に込めなくてはならないのではないか。このまま現代美術がこの方向のままに進むと、文化人でありたいと願う一部の人間だけの知的な営みに、アートは回収されてしまう。いまこそ美術は美術館を出たところに、もっと人々の身近なところにあるべきではないのか。

 …と元来の現代美術の苦手意識を書き綴っていて、一回りした。民藝の精神こそが、今の美術のあり方に一石を投じることができるのではいか。もちろん、同じように暮らしの道具を見直す、ということだけではただの焼き直しになるが。生活に根付いた単位から美しいものを見出す。これこそが21世紀の現代美術たる可能性を秘めているのではないか、そんな夢想を銀座のビアホールでほろ酔いの中感じたのだった。おそらくはこうした意図を持って活動しているアーティストは大勢いるに違いない。現代美術嫌いを克服して、今こそが新しい美術のあり方に積極的に関与していく時なのかもしれない。



TOKIOの夜はエビスビール

2010/09/03

美術史10コマ

久々に美術史の授業。
やっぱり美術史は面白いし、好きだなぁ〜。

PCでとったノートをそのまま記載。

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ポンペイ 
エルコラード(隣町、発掘途中)行く価値あり

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初期キリスト教美術 〜3C


ローマ・カタコンベの壁画


彫刻『羊を抱える男』初期キリスト教美術館 バチカン
・特徴 象徴性(禁じられた宗教故に露骨な表現を避ける)
モーゼの十戒より偶像崇拝の禁止
モチーフは古代ギリシアの作品に撮っている
新約聖書:羊の話→男がキリストでもあり、羊がキリストでもある(羊は生け贄の象徴)

4C 『キリストの洗礼図(洗礼者ヨハネ)』ラヴェンナ
この頃にはると、キリスト教が認められ始めたので、キリストを直接描いた図像が表れ始める。
しかしヨルダン川の神様も同時に描かれるなど、まだ唯一一神教としての性格が弱いことが認められる。

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ビザンチン美術

トルコ・イスタンブルより(コンスタンティノープル)
ハギア・ソフィア(ビザンチン美術を代表する建築)

サンヴィターレ教会 6C ラヴェンナ
円形からなる教会堂→本来円は異教の証なので、これは珍しい(cf.パンテオン)

古代ローマの伝統を受け継ぐ写実性と、象徴性という空間への無頓着の混在(人物の足が重なっている)
遠近法の狂い

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中世ヨーロッパの美術 10-12C

ロマネスク美術

宗教関係者によって成立する美術(ゴシックは職人たちによる)

・ピサ大聖堂
隣にカンポ・サント、シノッピア(下絵)美術館 世界で唯一のデッサン美術館 Museo di sinopia
交叉穹窿・半円アーチ (←→肋骨穹窿リブボールド、尖頭アーチ)


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マエストロ・グリエルモ 12C初期 サルザーナの教会にある最初のクローチェ・ディヴィンタ
『勝利のキリスト』

『苦悩のキリスト』13C


Giotto di Bondone(1267-1337)フィレンツェ
→弟子Simone Martini(~1348)シエナ派

ジョット サンタマリア・ノヴェッラ教会(フィレンツェにあった)「死せるキリスト」14C
1310 聖母子像 母親・女としてのマリアの表現


シモーネ・マルティーニ 『マエスタ』シエナ市庁舎 パロットプッブリコ
フランスゴシックの影響を多大に受けている作品。

→ジョット・マルティーニの表現にはフランスゴシックの影響があることを忘れるべからず。
ルネサンスの誕生に大きく寄与。

※アンジュー家(?)と組んでいたフィレンツェではシンボルフラワーは百合だった。
それを使うことを嫌がったシエナ派の画家は、「受胎告知」の天使の花にシュロを用いている。
シエナ大聖堂旧入り口脇の美術館も必見。

1348年ペストの大流行

ボカッチオのデカメロン(10日物語)
当時のイタリアの様子が書かれている。

ペストの恐怖が去って、ルネサンスとの過渡期に流行った様式が、国際ゴシック様式gothique international
ここでの国際は、汎ヨーロッパ的ということ。


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ルネサンス

ブルクハルト「ルネサンスとは世界と人間の発見の時代である」


・何がルネサンス期の芸術家を古代ギリシア・ローマにかき立てたのか?文化を復興しようという意図が彼らにあったのか。

ギベルティとブルネッレスキの比較から
1401年フィレンツェ洗礼堂を飾るレリーフのコンクール

主題は、『イサクの犠牲』
静かな構成のギベルティの作品が選ばれた?フィレンツェは商人の街であるから保守的な作品が尊まれた?
ブルネレスキは以降、ローマで建築に従事し、フィレンツェに帰りサンタマリア聖堂の大クーポラを見事作るようになった。

遠近法の問題
・科学的遠近法
・空気遠近法


ドナテロのレリーフ
初めて線遠近法が用いられた記念碑的作品
フィレンツェのダヴィデ像(ドナテロ作。黒いダヴィデ。ルネサンスで最初にコントラポストを用いた彫刻でもある。)のある美術館の聖ゲオルギウスの彫像の下のレリーフ


マサッチオ『聖三位一体』vers1428 667cm H x 317cm W
科学的遠近法を最初に用いた絵画。
キリストの神性を表している。

フィレンツェ サンタマリア・デッレ・カルミオ教会 à aller

ピエロ・デッラ・フランチェスカ←数学者だった『ブレラ祭壇画』
キリスト教美術で、両手両足に聖痕、胸に傷があって剃髪ならば聖フランチェスカだと思ってよい。



ローデンバック 「死都ブルージュ」→フランドルについての歴史小説

ヤン・ファン・エイク『アノルフィーニ夫妻』


ボスの「最後の審判」とラファエロの「聖ゲオルギオス(?)」とに関連が認められる?
炎の表現、怪物の表現。
ラファエロはウルビーノ生まれ。
ウルビーノ公を描いたフランチェスカの絵にはフランドルコンポジション(世界風景画)の背景。
これはフランドルの画家の影響によるものではないか。
例としてロランの聖母(ヴァネック)に見られる。ヴァネックやボス自身はウルビーノに滞在した記録は無いが、それに類するフランドルの画家が滞在したという記録は残っている。
→果たしてボスのような化け物表現が他のフランドルの画家に浸透していたのか、という疑問は残る。


アントニオ・デル・ポライオーロ『ヘラクレスのヒドラ退治』
初めて美術解剖を行った画家。作品はウフィッツィ美術館にあるが、本作は絵葉書ほどの大きさなので見逃しやすい。


新プラトン主義は、中世のキリスト教一辺倒の世界観ではなく、プラトンの思想をキリスト教的に吸収したもので、コスモポリタン的性格を帯びている。
ラファエロの『アテネの学堂』には古今東西の重要人物(ゾロアスターまでも)が描かれていることから、このことを最も体現していると言える。


レオナルド 孤高のひと
『子羊を抱くキリストと聖母』マリアは犠牲となる運命からイエスを引きはがそうとしている?アンナはそれを押しとどめようとしている?

2枚の『岩窟の聖母』について
真筆度で言えばルーヴルのものの方が高い???

『最後の晩餐』
ミラノ公ルドヴィーコの依頼。完成直後よりひび割れに見舞われる。
直後にフランス軍の進軍によりペイされず。
報われない天才レオナルド。

ミケランジェロ 激情のひと
『ダヴィデ』コントラポスト アカデミア美術館 青年として表されているのは、フィレンツェの街が成熟してきたことの証。
ドナテロのダヴィデは少年なのは、まだフィレンツェが成長途中の街であったからだとも。

『ロンダディーニのピエタ』 ミケランジェロ最晩年の、ピエタ最高傑作と言われる。
未完成作品が多い。のは、受け手がその先の完成を想像できるから?


ラファエロ 調和のひと
『大公のマドンナ』
お師匠ペルジャーノ
『ヒワの聖母子』ヒワは死の象徴。ヨハネがキリストの死を予告しているかの様。
最晩年の作品『キリストの変容』バロックへの予告となる作品 ローマで描かれた。
美術の中心はフィレンツェからローマへ。

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1506年頃、ローマでラオコーンが発掘。ミケランジェロが真っ先に駆けつけ、その激しい動き、ヘビの表現などに影響を受けた。
ローマの略奪、宗教戦争などの不穏さ・激動が画布に影響したとも。
↓
マニエリスムへ。

manière isme
ルネサンス3大巨匠のマニエール(形式)に則る。マンネリズム。形式を意識しすぎるがゆえに反動で壊れる。

フィグーラ・セルペンティーナ
ブロンツィーノ『愛の寓意』ロンドンナショナルギャラリー

パルミジャニーノ『首の長い聖母』


バロックのリアリズム
カラバッジョ『バッカス』
『果物かご』ポンペイ以来1500年ぶりの静物画。
『マグダラのマリア』教会から受け取りを拒否された。マグダラのマリアのアトリビュートは、香油、髑髏。ヴァニタス。


ベルニーニ
「ローマはベルニーニを必要とし、ベルニーニはローマを必要とする」と当時の教皇。
『恍惚の聖テレジア』バタイユ「エロティシスム」の表紙だったか…。

イタリア・バロックまとめ
超遠近法。宗教改革で神を疑う人々に、神の世界を感じさせるためのおそろしいまでの超遠近法的世界。視覚の非日常的体験を促すものとして、建築との境界のあやふやな天井画など。

アルテミジア・ジェンテレスキ
最初の女流画家。カラバッジョの影響の強い明暗表現。

ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥール

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ロココ

ヴァトー『シテ島への船出』しかし実際はシテ島から帰っていくところだとか。
ブーシェ『水浴するダイアナ』
フラゴナール『ブランコ遊び』
ファンタン・ラ・トゥール パステル画の名手。『ポンパドゥール夫人』

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・新古典主義

ポンペイの発掘が本格化。古代ローマに関する関心が増していく。
ロココへの反動も。

ダヴィ『ホラティウス兄弟の誓い』『サビニの女たちの略奪』新古典主義の巨匠

カノヴァ『ヴィーナス像』古代ローマへの心酔
アングル「ラ・グランド・オダリスク」


・リアリスム

ジェリコー『メデューズ号の筏』フランス海軍が起こした事件。救命ボートを積まずに出航した船が難破。1816年7月。400人の船員のうち、15人が生存したという。



マネ『オランピア』「ヴィーナス」の名の下から女性の裸体を解放。
カヴァネル『ヴィーナスの誕生』ヴィーナスとつくことでサロンに許容された例。

マネ『草上の昼食』1863年

モネ『印象 日の出』1874年

ピカソ『アヴィニョンの娘たち』1907年

2010/08/03

課題2

ku tu

絵を描くのはとても苦しい。
こういう苦しみを経ると、見たままの映像を描く写実主義もまた、
恐ろしいまでの手仕事として実感されてくる。
画家とは、どんな絵を描く人であれ恐ろしい視覚の持ち主なんだな…。

靴を描くという課題だったので、ハイデガーが激賞したゴッホの靴の絵が思い出された。
靴は意外と、その人の人となりが表れるものな気がする。
衣服よりも、ずっとずっと。
そりゃそうか。大地と人とをつなく接点は、靴だもんね。

2010/07/30

課題1

ta ma

彫刻の課題で丸太から彫り出したもの。
途中から削っていくんじゃなくて、取り出してくような感覚に。
ミケランジェロだかが言っていた、「彫刻とは素材の中に閉ざされた形を救い出すこと」
という言葉が以前から気になっていたのだけど、実際にノミをふるってみたら、
すこーしだけ(ほんとに少しだけ)わかったような気がした。
汗だくで全身を使える立体、好きだなぁ。
身体論と強く結びつく理由がわかったような気がする。


もっと磨いて、黒に着色して、台をつけて部屋に飾りたいな。
スペースもオシャレさもない部屋だけど…。

2010/05/11

ここのところ



マネはつくづく天才だと思わされたのと、ドガのバレリーナの絵が思いがけず見られて満足。
美術館も小さいながら雰囲気よろし。


ロートレックの油彩!
非常に豪華な画家が勢揃い。今までヨーロッパで見てきた画家を30分に濃縮したような感じ。
スーラが良かった。好きなもんで。あとフランス・ハルス。



ブタペシュトの軒下の暗さが美しく映像に立ち上っていた。



エログロ。ストーリーはいいんだけれども。胸焼けした。
主人公、どこかでみたような気がしていたら、『歓びを歌にのせて』の指揮者役の人だった。
ずーっと思い出したくて思い出せなかった映画だっただけに、思い出せて嬉しい。
これはいい映画だったな。


いい映画。スイスの味が出てる。正統派ヨーロピアンヒューマンドラマ。
邦題のつけ方が秀逸。

自分の全く知らない言語の映画を字幕で見るのは楽しいなぁ。言語の響きとか、意味がわからなくてもぐっと感じる時がある。

2009/12/18

状況大・寝大合同展@上越市民プラザ



この日曜日まで開催中。
立体もおもしろいなー。


追記:出品作品も載せておくことにします。誰かが、ユニクロのカタログみたいと言ったが、それは揶揄としては正鵠を得たものであった。実際、このごろのユニクロ着用率は70パーセント。

october 2009

2009/11/23

長澤英俊展 オーロラの向かう場所@国立国際美術館(大阪)

[#IMAGE|e0166155_16122450.jpg|200911/26/55/|mid|536|280#]

初めて行く美術館はいつだって嬉しいもの。
関西方面で美術館に行ったことがこれまでなかったため、どこにどんな美術館があるかも知らないでいたけれど、大阪が誇るのはこの国立国際美術館。

建物も、ちょっと物々しいけれど自由度が高くて、ずーっとエスカレーターで地下に下っていくのなんて、いつかのベルリンの絵画館を思い出させた。
それに祝日だというのに、空いているのが最高。
広々とした空間を広々と使いながら作品を見られる時間は、とてもゼイタク。

恥ずかしながら長澤英俊氏のことはこの展覧会で知ったのだが、埼玉育ち、自転車でユーラシア横断と、なにか個人的にも感じるものがある。

そんなことで豪放磊落な、ダイナミックな作品を勝手に想像していたのだが、実際はもっとポエティックで理知的な作品が多かった。

ミメーシスを問う「2つの輪」「2つの石」はじっくり見させるものがある。

「バグダッドの葡萄の木」「ゼノビア」を筆頭に、どこかユーラジア(我ながらいい造語だ…)な雰囲気の作風を感じた。ぜったいに、自転車での旅がこのことに影響していると思う。
自転車の速度で見た世界が一つの形として作品に結実した例といってもいいかもしれない。
ちょっとエキゾチックで、このあたりの作品は気に入りました。

その一方で「蜻蛉」なんかは情緒的で、ちょっと狙いすぎな感もあり。金属感と軽さが共存してるところはよかったけれど、世界に出た人間が宿命的に背負う、「日本をどう捉えるか」という命題に無意識に気負っているようにも見られた。

このテの問題はとても難しくて、世界で認められている芸術家が日本では認められにくい現実とか、世界と日本の間にある深遠な溝を感じさせるものだけど、
だからこそこうしたものをふっと飛び越えられる軽さが必要なのだと思う。

クンデラも言うように、「軽さ」をもう少し手に入れられたらといつも思う。
僕は少しも芸術家ではないけれど、いまだにヨーロッパとの距離をどう保っていいか悩み続けている節があって、それはどうも両極端な形で表れがちだから、こういう軽さが欲しくてたまらない。

脱線したけれど、そして矛盾するようだけど、長澤氏の作品は、特定の風土を強く感じさせるものではなかった。
そしてそれが魅力的でもあった。
ニオイのしない多国籍料理屋といった感じ。
見ていて純粋に楽しかったし、こんな大物をどうやって料理するのだろうと想像が膨らんだ。

そして一番気に入った作品は、やっぱり「オーロラの向かう所 柱の森」だった。
暗闇で目が慣れてくるにしたがって立ち上がってくる柱は、森林の木漏れ日のような美しさがあったし、こう目が慣れてくる体験が、自分がいまここに生きている一個の人間であることを教えてくれるような気がした。

こうした物の見え方から存在を浮かび上がらせる手法を、写真平面ではできないものかな。
暗闇の中を、柱に触れながら歩くと柱の太さが違っていることに気づいたり。
暗喩でもそうでなくても、中に入れる芸術作品っていいなあ!

2009/10/22

転変するイマージュ La subversion des images

か、カッコエエ…。
ポンピドゥーセンターのシュルレアリスム展。
見に行きたいなぁ。


http://www.dailymotion.com/video/xasbzp_la-subversion-des-images-surrealism_creation


"J'essaie de rendre ma photographie automatique"

Man Ray

2009/09/16

大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ

おひさ!

先日まで新潟中越で開催されていた越後妻有アートトリエンナーレに
行ってきましたのでその時の様子をちょっと報告いたしまする〜。

いちおう美術系のコースに在籍する新潟人(故郷は遠くにありて思うもの…あぁ、ださいたま)
としては外せないイベントなので、同じコースの同級生と3人で行って参ったよ。

les trois

影だけで判別のつく、わかりやすい3人組。わたくしはもちろん左端です。

んでぼくは現代美術というものは見たり感じたりしてぱっと印象に残ればそれでいいと思っているので、
一応見てきた作品の写真だけのっけて紹介ということにします。

現代美術のとっつきにくさは間口のあまりの広さから来るとぼくは考えているので、
もうやりたいように楽しめれば、それだけで芸術としての役割を果たしているんじゃないかと思うのだ。

ごちゃごちゃとコンセプチュアルなものはイヤ!
そんなことは哲学者に任せとけばいいのだし、優れた作品は語らずとも内に思想を帯びるものだから、
それでいいでないかい。

ってなわけで作品集。

Tour
陶器を寄せ集めた塔。

ligne
古民家にマニアックにはりめぐらされた毛糸。

CB
世界的アーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーの「最後の教室」ここは体育館。

CB
同じく「最後の教室」より。棺桶を思わせるディスプレイ。

musée imité
有名な絵画作品を写真でパロディした美術館。モデルは村人なんだという。面白かった。下の無人市でキュウリを買って夜にモロキュウでお酒のつまみとした。

rices
わかりにくいが天井から糸がたれていて、ぜんぶに米がくっついてる。こんなのが家中。マニアック。

papillons
図鑑から切り抜いた蝶を天井一面に。マニアック。

me
見晴らしのよいお座敷で稲刈りを見る。

ligne
こちらは鋼鉄のロープが古民家中に張り巡らされる。マニアック。



迷子になったり、おいしいラーメンを食べたりした、夏休みらしい一日でした。
それにしても現代美術家、マニアックすぎだろう。。。

2009/06/23

東京都写真美術館/世界報道写真展2009

鑑賞の模擬授業であった。
ミレーとゴッホを対比するものと、モナリザから美について考えるものの2つ。
「見る」ことで授業になる鑑賞は、どうしても生徒が受動的になってしまうから難しい。

自分はコレが好きなんだ!ってのもただの押し付けになってしまうし。
準備段階でもだいぶ言いたいことを端折ったが、本番直前で大幅にカット。
短い時間でいかにエッセンスを抽出するか。
そして中学生がわかる語彙でいかに語れるか。

つねづね思っているのだが、ほんとうに頭のいい人ってのは単純な言葉の中に、
わかりやすいように意図を含ませることができるもので。
どうしても使い勝手の良い語彙に頼りっきりの自分としては、もっと言葉をソフィスティケートすることが課題だ。
言葉を難しい方向ではなくて、開かれた方向へ。

意外だったのはミレーの種播く人とゴッホの種播く人でゴッホが不人気だったこと。
絵の見方はほんと千差万別。
ちょっとしたことで人間、絵を見るのが好きになれるんだから、鑑賞領域の強化を
今後の美術教科の指針に取り入れてもらいたいものだ。


さて。週末、ばたばたと帰省し、恵比寿の写真美術館に参上して参った(変な日本語だ)
恵比寿は道行く人みんな小洒落ていて、すごく都会を感じたのだった。
しかし東京は人が多いナ。

見たのは報道写真展。
報道写真の方向性について、思うこと。

どうやら2種類の流れがあるように見える。
ひとつはドキュメントとして真実を記録してそれを白日の下に開示するもの。
もうひとつは事件性という衣をまといそれを蓑にして写真の形態美を追求するもの。

ドキュメントとしての写真の効用は古くからあるもので、こちらの写真も少なからず構図や美的感覚への希求力が必要になると思うが、
どうも後者の事件性はタイトルだけに留めて写真としての形態美や面白さを追求しました、
というものは報道写真の本質から離れているようにおもう。
訴えてくる「何か」よりも形態とか構成に眼を惹かれる写真は報道ではないと思う。
その意味で報道写真にはとてつも無いエネルギーと不穏さが不可欠になってくる。

でもそれはすべからく我々のレンズへの信頼がまだ死んでいないことを示すものでもある。
その信頼が消え去るときが、写真報道が消え去るときかも。


ちょっとだけ原宿界隈を歩いたけど、もうなんだか町についていけなくなった自分を省みて、
「年を取ったナ…」とも、「大人になったナ…」とも感じた。


同窓会。
高校のクラス会は始めて出席。
いやぁ、埼玉の片田舎で育ったもの同士の会話はかくも弾むもんさね。
高校時代の恩師も元気そうで(というより若々しくなってた?)、
高校時代の同級生は大人びていて、
高校時代の女子学生は結婚を話題にのせ、
高校時代の男子学生は相手がいないと嘆き、
高校時代の僕は7年後に池袋でこんなカタチで再会するとは露ほどにも思っていなかったのであった。

どんな環境にでも、入ってしまえば満足感を覚えるタチではあるけれど、
やっぱりあの第2学年は僕の高校生活の中で特別な時間だったんじゃないかとじんわりと、おもう。


あぁ、高校時代を語ると青春ぽくていいなァ


いいリフレッシュをとってまた上越に戻る。
ここの暮らしだって、悪くない。
お盆まで、ゆったりしっかり進んでいくのだー。おー。

2009/01/29

ここは一体何平洋よ?

卒論の試問をひかえて今一度要点をまとめ中…だが自分の要点がよくわからなくなってきた…。
論文と言うより、エッセイになっているしなぁ。


・写真が絵画史に及ぼした影響よりも絵画が写真に及ぼした影響の方が大きい。
・写真はその客観性故に、社会的な方向を選び、絵画は主観的な芸術へと進んだ。
・このことは写真の登場が客観性を保証することから起こってきたと考えるのは早計。
・もとより、この客観性は19世紀フランス社会(西欧近代一般)の要請であったこと。
・それには新興ブルジョアジーの台頭があり、自らを客観視する肖像画の需要が高まり、
その延長線上に肖像写真が存在したということ。
・この客観性の前提が写真を芸術とみなすことに障害となった。
・なぜなら絶対的な客観は芸術になりえないから。
・写真は芸術であろうとして絵画的な美学を継承するしか考えがなかった。
・写真の客観性は絵画の写実性の追求のひとつの極点としてその試みの中に収斂される。
・ブルジョワの「個性の追求」は(肖像写真の交換を経て)個人的な視野・視覚というものを希求するようになる。「個人」の概念の誕生の時期。
・それに応えるか、おそらくはその個人の最も速い萌芽として個人の主観的な絵画が誕生。
・セザンヌの静物画。
・こうした社会の近くの変化が絵画の流派の激烈な変遷へつながってゆく。
・写真はこうした試みの中から絵画の自己否定を見出し、そして絵画的美学を取り込むことをあきらめるようになる。
・では写真の写真としての立ち位置はどうなるのか?→ストレートフォトグラフィ
・客観性に写真のよりどころをみるが、それは主観に支えられた客観。
・マン・レイの主観と客観の侵犯。2次元と3次元の侵犯。
・3次元空間がそのまま写るという写真の前提(これはつまりルネサンス的な遠近法絵画の前提の継承であった)を破壊するマン・レイの写真。
・写真ははじめて絵画の呪縛から解き放たれる。

が、それで写真がどうあれば純粋に芸術として定律するのか、まで言及できなかった。。
マン・レイの仕事が写真の可能性を初めて引き出した、で論が終っているからなぁ。
でもそれを考えるにはもう少し後の時代の写真家を調べないといかん気もする。

あー論文になっていない。
まとまらないまとまらない。


コントレックス箱箱箱買い

2008/12/07

『巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡』@国立新美術館

ピカソ展へ参上せり。
日曜なのは覚悟の上。
新美術館はいつぞやのポンピドゥー展以来。
そして混んでた(いつものことね)


率直な感想。

・キュビスムよくわかんない(というかおもしろくない)
・キュビスムは知的な絵画とか言われてるけど、絵を見る人が知的であることを自ら引き受けているという自負がおしつけがましくてヤだ
・新古典主義時代の量感あふれる絵はレジェっぽい。
・ヘタなピカソの擁護としての新古典主義時代の提示はまるで意味が無い!
「ピカソはちゃんと描けるのね〜」ってちゃんとって何?リアルがいいなら写真でいいじゃん。
・総合的キュビスムの人物画の眼はどっち目でもいいんだと思った。
・個人的にはピカソの色彩よりも線が好き。
・フランソワーズの鉛筆での正面からの肖像×5(1枚はパステル)は、とてーもよかった。
・ピカソ美術館にはやっぱり行きたいなー
・イベリア彫刻もルーブルでよく見たいなー


美術館の上の方には彼のボキューズ氏のブラスリーがあった(看板しか見てないけど)

六本木の新しい美術館にフレンチレストラン、っていう構図。
なんかコテコテ。
フランス=文化的、エレガント、ステータスみたいなイメージが過多すぎやしないか、おジャポンは。

最近はどうも美術館が商業施設の中でももっとも狡く見えてきて、参った。
しばらく都会を離れよーっと。

素朴な自然博物館などで、鉱石でものんびり見たいものです。
あれ?俺、枯れてる 笑

2008/11/26

フェルメール展〜光の天才画家とデルフトの巨匠たち〜@東京都美術館

※ウィーンで「いま修復中だからないよ」とあっさり言われた「絵画芸術」がこの度日本にやってくるということでずっと期待していた本展。…が、前日公式サイトでこの絵が結局日本にやって来ないことを知って、がっかりしながら絵を見に行ったために、以下の内容もあまりポジティブなものではありません。読んでいる人はあまりいないとは思いますが、気に障りそうならお止めくださいまし。ましまし。

ようやくフェルメールを観るため上野へ見参。
上野ステーションのチケット売り場で現在40分待ちと教えられる。
急速に気が重くなる。足取りも重くなる。
ド平日水曜の夕方に行ってもそんなに待つんすか…。

都美術館は大混雑。
それでも昼間は1時間以上並ぶそうだからまだマシとのこと。
狂ってるな。
わさわさと列を作る人の群れの中に身を任せると、
自分何やってるんだろと悲しくなる。
フェルメールをもってしても人ごみ嫌いは克服できないのだから、
もうこの病とは一生つきあっていくこととしよう。
でももう日本では行列つくってまで絵を見るのは止める。
ブリューゲル(父)が2枚以上来るなら話は別だが。
ドヴラマンクも別。モディリアニも別。あぁ例外多し。

だいたい絵を美術館で観るってこと自体なんかいやらしい。
絵を並べて優劣をつけてこの高さ、
この光加減でハイ見てねっていう強制に
疑いなくホイホイと「これはいい絵だ」
とか言っちゃう自分が恥じらわしい。
絵なんて自分の好きな額縁に入れて、
自分の部屋の好きなところに飾って、
暮らしの中に他の世界の窓となるべきなんだ。
絵を楽しむってそういうことなんじゃないのかなぁ。

これまで僕もなんか美術史とか美学とかかじって、
仰々しく美術館に通って
目を細めて絵の前に突っ立ったりしてたけど。
そこになんらか「自分は文化的だ」的な
自己陶酔があったのは否めない。
あぁ恥ずかしい。浅薄だ。
絵を楽しむっていうことを自分で狭めてたな。

30分ほど突っ立って待っている間、見終えた人たちが次々と横から出てくるのを見てた。
なんかどの人も作業を終えて疲れた人の顔をしていて、
なんだか絵を見ることを疑い始めてしまった。
作業のように列を作り、作業のように人ごみにもまれ、
作業のように絵をみて、作業のようにポストカードを買い求める。
そりゃ疲れるわ。

肝心の展覧会のこと。
30分並んで、絵を見たのは20分。最短記録達成。
もうフェルメールだけしか見なかった。
「小路」はやっぱり素晴らしい。
この絵の中では雲が動いてる。
今日見てそういえば、現地で「眺望」とこの「小路」を見た時も、
同じことを感じたんだったと思い出した。
レンガの光りかたと、手前の地面の土、扉奥の黒さがぐっとくる。
きりっとしていて「眺望」より曖昧さが無いかんじ。

「小路」は別として、見られてもっともしやわせだったのは、
「リュートを調弦する女」(メトロポリタン美術館)
光のやわらかさがじんわりこちらにもしみ込んでくる。

「ワイングラスの娘」(アントン・ウルリヒ美術館)と「ヴァージナル」
はおそらくこの機会を逃したら生涯会わなかっただろうなぁ。
でもこうやって会える会えないで判断しているところがすでに、
絵を見ること自体が目的になっているというか…。狭量だ。
「ヴァージナル」のスカートはとてもぴかぴかしていて印象に残った。

ほんの数十分だけだったのに、
展示室を出る頃はすっかりぐったりしてしまった。
結局、僕が一時間前に見てきた人たちと同じ顔をしてただろうな。
こんなにも辛辣に心が痛むのは、
やっぱり人生で一番感動した絵がフェルメールだからだろう。

あの時、マウリッツハイスで「デルフトの眺望」を見た時の衝撃は他の絵ではもう二度と経験できまい。
あの強烈な経験を少しでも思い出したくて、上野に行ったけど、
期待が大きすぎただけに悲しい気持ちになった。
というか、自分から絵画を拒んでしまったのだから世話は無い。
晩秋の北風吹く上野公園を歩きながら、
80万人の1人でしかない自分を、
フェルメールを見たことで痛感させられた皮肉の味を堪能したのだった。

絵をみることについていろいろ考えさせられる展覧会だった。
あー、もっと明るいことを書ければいいのに!


ベルリン、絵画館(Gemäldegalerie)にて「真珠の首飾り」
15分くらいこの絵の前にいて、見に来た人は3人ほど。
幸福な絵は幸福な環境で見れたからこそ、心に残ったのカモ。

2008/11/24

セザンヌ主義@横浜美術館

セザンヌ主義 at 横浜美術館へ行って参った。



横浜初上陸。
ぜーんぜん街を見てないけど、なんだかいい感じ。
街行く人がみんなお洒落だったのは気のせいではないはずだ。
住み良いのかな?
ちょっと暮らしてみたいかも。

さて。横浜美術館。
なかなかいい門構え。
作品リストが無いのは残念。
主に国内の美術館の所蔵作品が集まっていた。
海外からは、ブルックリン美術館とメトロポリタン美術館から
ガルダンス、縦長の風景画がめぼしいところか。
なんでもセザンヌの絵はどの美術館でも目玉扱いで、
なかなか外に出したがらないために集めるのが大変なのだという。
言われてみれば、セザンヌの大規模展覧会って聞かない。

それを差しおいても、日本にも結構セザンヌが入っているんだなと思う。
というよりも、今回の展示はセザンヌから影響を受けた画家も
テーマで、日本人画家の作品も多く見られた。
国内外にあれだけのフォロワーを生み出したのだから、
その偉大さは言うまでもないけれど、
しかし作品を見れば一目瞭然。
あと日本人の感性はあまり西洋画のスタイルに合わない気が。
仮に同じ手法で同じ場所を描いたとしても、
なんか日本人の絵は湿っぽい。
風景画を描くときには、多分にその画家のバックボーンとなる自然の雰囲気というのが画布に現れるのではないか。
あのガルダンスはやはりセザンヌの体得風景で、
あの日差し、あの緑、あの壁が描けるのだと思う。
逆に西欧人が日本の風景を描いても、
木々や葉っぱのなかの湿りっけに空気感が現れるような描き方は出来ないのではないか。
よく言われることだけれど、日本は平面的に自然を切り取るのがよい。
中途半端な遠近法などはなんか日本の感性にマッチしないような気がしてしまうのだ。

多数のフォロワーの半端さが却ってセザンヌの絵を引き立てていた感も否めないけれど、
その中でもピカソの汽車の風景をキュビスム的に描いた絵と、
モディリアニの肖像画はよかった。
モディリアニは、何見てもいいと僕は言うけれど 笑

ぐっと来たのはサント・ヴィクトワールのデッサン。
いつも思うのだけれど、鉛筆でしゃしゃしゃっと描いただけの
デッサンは的確に画家のエネルギーを感じさせてくれるように思う。
いつか文化村で見たモディリアニのデッサンもスゴかった。
あとはアングルのデッサンも。
ついでにピカソとミロも。

セザンヌ余白の美学。
なんかようやくセザンヌを掛け値なしにいいと思える年になったようだ。
中学の時画集で見たLes joueurs de carteはひどく印象的で、
それがセザンヌとの出会いだったのだけども、
それから彼の風景画や静物画にはどうにも共感できず、
なんだかカタい絵だなぁなんて思っていたのだけども。
今はセザンヌのあの色彩や構成にぐっと来る。

今回の特別展のおかげで、セザンヌの名作をもっと見たくなった。
オルセーに行きたいなぁ。
今、Les joueurs de carteを見れたらまた印象は違うかもしれない。
La peinture se révèle,il faut tenter de voir!


<おまけphotos>

セザンヌゆかりのエクスのおもひで。
2008、春。


エクス・ローヴにあるセザンヌのアトリエ



中は撮影禁止。入場は学生2€。
テーブルの上にはしおしおのリンゴなどが置いてある。
これはセザンヌ生前当時からあるの?と聞いたら、
笑いながら「もちろん取り替えてるわ」と。




曇天のサント・ヴィクトワール山。
真夏はコントラストの強い光に当たってさぞかし映えるだろう。
アトリエから結構登ったところから。