2008/11/26

フェルメール展〜光の天才画家とデルフトの巨匠たち〜@東京都美術館

※ウィーンで「いま修復中だからないよ」とあっさり言われた「絵画芸術」がこの度日本にやってくるということでずっと期待していた本展。…が、前日公式サイトでこの絵が結局日本にやって来ないことを知って、がっかりしながら絵を見に行ったために、以下の内容もあまりポジティブなものではありません。読んでいる人はあまりいないとは思いますが、気に障りそうならお止めくださいまし。ましまし。

ようやくフェルメールを観るため上野へ見参。
上野ステーションのチケット売り場で現在40分待ちと教えられる。
急速に気が重くなる。足取りも重くなる。
ド平日水曜の夕方に行ってもそんなに待つんすか…。

都美術館は大混雑。
それでも昼間は1時間以上並ぶそうだからまだマシとのこと。
狂ってるな。
わさわさと列を作る人の群れの中に身を任せると、
自分何やってるんだろと悲しくなる。
フェルメールをもってしても人ごみ嫌いは克服できないのだから、
もうこの病とは一生つきあっていくこととしよう。
でももう日本では行列つくってまで絵を見るのは止める。
ブリューゲル(父)が2枚以上来るなら話は別だが。
ドヴラマンクも別。モディリアニも別。あぁ例外多し。

だいたい絵を美術館で観るってこと自体なんかいやらしい。
絵を並べて優劣をつけてこの高さ、
この光加減でハイ見てねっていう強制に
疑いなくホイホイと「これはいい絵だ」
とか言っちゃう自分が恥じらわしい。
絵なんて自分の好きな額縁に入れて、
自分の部屋の好きなところに飾って、
暮らしの中に他の世界の窓となるべきなんだ。
絵を楽しむってそういうことなんじゃないのかなぁ。

これまで僕もなんか美術史とか美学とかかじって、
仰々しく美術館に通って
目を細めて絵の前に突っ立ったりしてたけど。
そこになんらか「自分は文化的だ」的な
自己陶酔があったのは否めない。
あぁ恥ずかしい。浅薄だ。
絵を楽しむっていうことを自分で狭めてたな。

30分ほど突っ立って待っている間、見終えた人たちが次々と横から出てくるのを見てた。
なんかどの人も作業を終えて疲れた人の顔をしていて、
なんだか絵を見ることを疑い始めてしまった。
作業のように列を作り、作業のように人ごみにもまれ、
作業のように絵をみて、作業のようにポストカードを買い求める。
そりゃ疲れるわ。

肝心の展覧会のこと。
30分並んで、絵を見たのは20分。最短記録達成。
もうフェルメールだけしか見なかった。
「小路」はやっぱり素晴らしい。
この絵の中では雲が動いてる。
今日見てそういえば、現地で「眺望」とこの「小路」を見た時も、
同じことを感じたんだったと思い出した。
レンガの光りかたと、手前の地面の土、扉奥の黒さがぐっとくる。
きりっとしていて「眺望」より曖昧さが無いかんじ。

「小路」は別として、見られてもっともしやわせだったのは、
「リュートを調弦する女」(メトロポリタン美術館)
光のやわらかさがじんわりこちらにもしみ込んでくる。

「ワイングラスの娘」(アントン・ウルリヒ美術館)と「ヴァージナル」
はおそらくこの機会を逃したら生涯会わなかっただろうなぁ。
でもこうやって会える会えないで判断しているところがすでに、
絵を見ること自体が目的になっているというか…。狭量だ。
「ヴァージナル」のスカートはとてもぴかぴかしていて印象に残った。

ほんの数十分だけだったのに、
展示室を出る頃はすっかりぐったりしてしまった。
結局、僕が一時間前に見てきた人たちと同じ顔をしてただろうな。
こんなにも辛辣に心が痛むのは、
やっぱり人生で一番感動した絵がフェルメールだからだろう。

あの時、マウリッツハイスで「デルフトの眺望」を見た時の衝撃は他の絵ではもう二度と経験できまい。
あの強烈な経験を少しでも思い出したくて、上野に行ったけど、
期待が大きすぎただけに悲しい気持ちになった。
というか、自分から絵画を拒んでしまったのだから世話は無い。
晩秋の北風吹く上野公園を歩きながら、
80万人の1人でしかない自分を、
フェルメールを見たことで痛感させられた皮肉の味を堪能したのだった。

絵をみることについていろいろ考えさせられる展覧会だった。
あー、もっと明るいことを書ければいいのに!


ベルリン、絵画館(Gemäldegalerie)にて「真珠の首飾り」
15分くらいこの絵の前にいて、見に来た人は3人ほど。
幸福な絵は幸福な環境で見れたからこそ、心に残ったのカモ。

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