2011/09/11

それでは自転車で旅しよう、四国を プロローグ   

とにかく、旅に出てみようと思った。

別に人生に迷っているとか、本当の自分を探して、ということではなくて、
漫然と知らない土地、知らない太陽の下で、知らない空気を吸うことが必要な気がしたのだ。

旅に誘われるこの感覚は不思議なもので、いざ旅に出ると「あぁ、帰って自分の布団でぬくぬく眠りたい」と思うのに、それでもふらふらとどこかへ行かないと自分が保てないように感じてしまう。
これはリセットともリフレッシュとも違っていて、同じ場所に居続けることや、同じ場所の往復に硬直することから本能が逃げたがっているのかもしれない。
この点において、ベルクソンの安定・硬直の考え方はすんなり理解がいく。

僕の考える旅というのは、本質的には逃避なのだと思う。でも逃避の本質ではない。
かならずそのとき、帰る場所のあることが大切で、帰るために旅をしているのかもしれない。
最終的な目的地は、旅の目的地ではなくて、経由地を巡ってから至る自分の家なのだ。
そう書くといかにも旅が好きなようには自分でも思われないけれど、

”私は旅が嫌いだ”

と若きレヴィ・ストロース氏が書いたその「旅」と現在の旅はもう徹底的に断絶していて、
「旅」という言葉が持つ響きや強さ、そのイメージをある種のロマンを介さないでは感じ取れないところまで、
ぼくの感性は伯方の塩よろしくしょっぱいものになってしまったようだ。



この日の昼は、加東でロードレースを見ていた。


**旅についての覚え書き(あるいは、偏屈な思い込み)


旅にロマンと憧れを常に抱いていたい僕は、ガイドブックをあんまり読みたくない。
特に写真入りのガイドブックは極力読まない。
ガイドブックのイケてない写真にこれから自分が見るであろう景色が矮小に閉じ込められているのは見たくない。
それに、そもそも4cm四方の写真に、雄大な自然や歴史ある建造物、人々の営みは収められない。
説明的な写真ほど、悲しいものはない。
(一番悲しいのは、旅先でこうした“とりあえず”説明的な写真を撮ってしまう自分なのだが…)

旅に必要なのはロマンなのだ。

と思う。

ロマンとは、文章だけで描写された町、人々の暮らし、風景を追って旅に出て、ついにそこで、自分の目でそれが実感できるような経験のことだ。
それ以上に、豊かなことがあるだろうか。
そうやって人を旅に掻き立てるのが、文筆の大きな力だったのではないか。

今でもぼくの人生最高の一冊、開高健が「フィッシュ・オン」でギリシアのある一枚の写真に寄せたキャプション。

"建築は凍った音楽だ"といわれるが、それならこれは粉ごなに裂かれた楽譜であろうか

これを読むとき、すっかり写真は文章の前に陥落し、たった一行の言葉の強さを思う。
客観的に風景を伝えるはずの写真よりも、編み込まれ凝縮された言葉が異国の風景へと誘ってくれる。

また別に、氏がイスラエルについて綴った文章(岩波講座 哲学 13 文化 1971年)

"たくましいシオンの娘が果物畑で哄笑し、子供がプールで叫び、シャバット明けの土曜の夜に若者たちがトランジスターを片手に街燈のしたをさまよい歩く。その声やゆれる乳房やたくましい背のうしろにきっと上部シレジアの荒地がときには薄明、ときには光輝のうちに広がり、透けて見えてならなかった。イスラエル生まれのイスラエル育ちのサブラたち、つまり第二世代の子供たちは、大虐殺の記録映画を見せられても比類なく強健なユダヤ人たちが犬や兎のように黙って殺されるままに殺されていったということが信じられなくて、ウソだ、ウソだといってソッポ向くという話を聞いたことがある。たった十年か、二十年かのうちにそういう変貌が起るのである。歳月というものの静謐で圧倒的な力。"

こうまで書かれてしまうと、異国の香りを運んでくれる以上に、旅への誘惑を感じる。
文豪の文章を引き合いに出したのはあまり具合がよろしくなかったかもしれない。

旅観はそれぞれの人がそれぞれに持っていて然るべきだけど、結局のところ、それはみんなどういう書物に触れたかがベースになるのではないか。
ぼくの場合は何にも増して開高健があったために、1970年代くらいの旅に憧れているフシがある。

だからどうしても、旅は日常生活との断絶であってほしいと思う。
つくづく、どこにいてもかかってくるケータイ電話というものをうらめしく思う。
どこにいても受信できてしまうメールも。

頭の中ではロマンでいっぱいの「旅」をしながら、iphoneで次に進む道を調べることは、
何にも増して我慢がならないはずだったのだが、今回の旅はこうしたロマン主義的思考を現実に引き戻すためのいい機会でもある。

本当に僕が望む旅は、もうできないのだということを実感するための旅。
こう書くと湿っぽいけれど、普段からどこか現実と遊離している自分にとっては、現実を旅するというポジティブなテーマでもある。

時代が変われば旅の姿も変わる。
家の中にいながらにして世界中を旅することができるつまらない時代がくる前に、自らの足で、旅に出かけよう。



***というわけで、自転車についての覚え書き(あるいは、旅のほんとうの動機)


自らの足と言ったからには、自転車で行こう。
というより、自転車で行く以外に選択肢はない。

もう9年も自転車に乗ってることになるが、自転車で旅をしたいといつも考えていた。
普段乗るときは山道をぎゅっと50kmほど走るのがメインで、
一人で100kmを乗ることなんてひと月前の糸魚川へのサイクリングが初めてだった。
人と走ると100kmを超えることはざらだが、それでもついていけないことが無いのは、ひとえに若さゆえだと思う。
ロードレースのペースで100kmは間違いなく走りきれない。

そんな自転車の楽しみ方をしているので、個人的には100km/日 × 一週間というのは、割と冒険でもある。
150kmにしなかったのは弱気?(直前に風邪を引いてしまったので区切りよく100kmにしたのである)

それに自転車旅は、学生の時にしておきたかったというのがある。
というか、日本では学生の時を逃すとなかなか一週間の自転車旅はできないだろうことは想像がつく。

さらに、バイクが旅に掻き立ててくれた、ということもある。
Rapha四列島で僕が乗るIndependent FabricationのClub Racerというモデルは、
ロングリーチのブレーキ対応で、フェンダーやキャリアの取り付けができる設計になっている。
ホイールベースが長めにとられており、長距離のライドにうってつけのバイクである。
ふつうにロードレーサー並に走れてしまうところはIFの味付けの巧さ、というよりバイクの基本性能の高さ。
荷物の多い旅ツーリングでわかるバイクの特性やクセもあるだろうと期待する。

これはウェアの面でも同じで、普段着ているRaphaのウェアも一日着てすぐ洗濯できるようないつもの着方ではなく、
一週間の旅という枠組みの中でどう着ることができるのか、ということの模索でもあった。
キレイに着ることが本分でないウェアだからこそ、タフに着てみてどうか、ということが知りたかったのだ。


さて、旅は帰ってくるのが目的とは言いつつも、それならどこに行ってもいいことになる。
でもせっかく行くのなら、ひょいと行けないでいたところに行くのがよいではないか。
この「せっかく」が時として曲者だが、旅においては大事にした方がいい心持ちであるとおもう。

前日に兵庫へ行くことになったので、旅先は「小豆島〜四国一周」と決めた。
細かい動機はまたおいおい書いていきたいが、ざっくりと書くと、

・オリーブ
・うどん
・四万十川のアカメ
・しまなみ街道

といったところ。あとは旅をしながら行きたいところや食べたいものが見つかればいい(それこそが旅の魅力では)。
大きな目当ては決めたものの、あとは自転車で走ること自体を一番の目標とした。

自転車の本質はと問われれば、やはりそれは旅なのだと思う。
ツール・ド・フランスがツール・ド・フランスでありうる理由は、それが失われた時代の旅への畏敬を、
今でも少しは観る者に思い起こさせるからだ。
そのツール・ド・フランス自身が時代の流れの中で驚くほどに変わってきていることを考えると、
先にぼくが必死で書いた70年代の旅への郷愁も、むべなるかな、というところ。
時代に合わせ、時代を生きていくことが生けとし生けるものの宿命なのだ。
そのことは、今ではお笑い芸人の名前にまで使われるアメリカザリガニや、
東国のため池で一時の栄華を誇り、そして今はまた消えかかっているタイワンドジョウがよく現している。
時代に背くといういうその行為ですら、その「今」を前提にしている時点で背けていないことは、
ファッション界の周期性や、時折もてはやされる「クラシック」なものに見られる通り。

ツール・ド・フランスの核となる部分は、華やかな号砲が鳴り響くスタート地点や、激しいバトルが繰り広げられるゴール地点よりも、通過していく名も知られぬ無数の町とその風景にあるのではないか。
フランス人の原風景にあるツールは、過ぎ去っていくそのイメージにある。
一点に留まらず流れるように走り去る一団に、人は旅を見るのだし、そこに惹かれる。
アンリ=カルティエ・ブレッソンの代表的な写真集の名前が「逃げ去るイメージ」であることと、
ツールを駆ける選手たちの瞬間的な光景は、本質的には相通じるものであると思っている。

そんなワケで、自転車で走る旅を、はじめようと思う。



****荷物を確認したら、旅立とう。


問題はカメラが無いことだ。
あまりにも思いつきで旅に出ようと思ったので、手元にカメラがない。
でも写真の撮れない旅を思うと、それが旅として成立しないくらいにまで思えてくる。
写真と旅の結びつきについては、今冬に仕上がる(はずの)論文に任せるとして、
とにかく旅先では写真を撮りたい。それが記念すべき初の自転車の旅ならなおさらだ。

これまでずっと、小型カメラの必要性を感じていたので、これは好機だったのだとおもう。
それでもコンパクトデジカメはよくわからないので、自然とミラーレス一眼になる。
実は旅を始めるより先に各社のモデルをチェックしていて、だいたい欲しいモデルは目星をつけていた。

それがこのSONY NEX-5である。
ちょうどこの週に後継機が出たとのことで、値段もいい具合に下がっていた。
しかしネット上のお値段と店頭価格が違うことは良くあることで、というよりもそもそも
店頭には在庫が無く、なんと旅の始まりは姫路の街をカメラを探して走り回るという結果に。

結局、店頭にはなかったものの、店員さんに聞くとデモ機がありますとのことで出してきてもらう。
ブラックカラーで16mmレンズ付きと、ドンピシャなモデルがあったので、即決。
荷物がいっぱいいっぱい(本当にリュックに隙間が無い…)な状況ではズームレンズは持ちきれないと思っていたので、
好都合ではあったけれど、16mmという画角、どんなものなのだろう。
APS-Cなので、24mm相当。
そうそう、NEXを選んだ理由のひとつが、このAPS-C。
iphoneで撮った写真ですら2:3にトリミングしたくなる僕にとって、ミラーレスでAPS-Cとなるとソニーしか
選択肢が無いと言えば無かったことになる。
小型で、指のひっかかりが良さそうなデザインもよい。サイクリングジャージのポケットに入れる前提なので、
小さいにこしたことは無い。



そんなわけで旅に下ろしたてのカメラを持ち込むというある種の暴挙から、この旅は始まります。
(宿で充電中に取り扱い説明書を読んでも、やっぱりというかわからない。
カメラは触りながら慣れていくしかなさそうだ)

使い方のわからないカメラで撮ったピンぼけ写真、を何枚か撮った後にようやく写した今回の荷物。
NEX-5の記念すべき(ほぼ)1枚目でもある。





リュック:GREGORY Day&Half 33L 自転車用ではないバックパック。

ウェア:Rapha プロチームジャージ&ビブショーツ&ソックス
    Rapha メリノベースレイヤー(黒、半袖)(Vネック、ピンク)(白、スリーブレス)
    Rapha ツーリングショーツ
    Rapha ジレ(2009モデル、黒)
    Rapha メリノボクサー
    Rapha シルクスカーフ(白)
    Rapha アームウォーマー
    下着のパンツ×2
    長袖のパーカー
    パジャマ用長ズボン
    ノーブランドのレザーグローブ(そこはグランツールグローブだろ!)

シューズ:Mavic プロロード
     Merrell ムートピア

輪行袋:Ostrich ロード320

ガジェット:MacbookAir 13"(仕事上の都合で仕方なく…エアーと言っても重いわい!)
      iphone 3GS(今回の旅の必需品であった)

その他:風邪薬(この前日から風邪を引いていた…)
    のど飴(同上…)
    財布
     


思えば、この姫路の夜から、旅は始まっていた。

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