2009/06/23

東京都写真美術館/世界報道写真展2009

鑑賞の模擬授業であった。
ミレーとゴッホを対比するものと、モナリザから美について考えるものの2つ。
「見る」ことで授業になる鑑賞は、どうしても生徒が受動的になってしまうから難しい。

自分はコレが好きなんだ!ってのもただの押し付けになってしまうし。
準備段階でもだいぶ言いたいことを端折ったが、本番直前で大幅にカット。
短い時間でいかにエッセンスを抽出するか。
そして中学生がわかる語彙でいかに語れるか。

つねづね思っているのだが、ほんとうに頭のいい人ってのは単純な言葉の中に、
わかりやすいように意図を含ませることができるもので。
どうしても使い勝手の良い語彙に頼りっきりの自分としては、もっと言葉をソフィスティケートすることが課題だ。
言葉を難しい方向ではなくて、開かれた方向へ。

意外だったのはミレーの種播く人とゴッホの種播く人でゴッホが不人気だったこと。
絵の見方はほんと千差万別。
ちょっとしたことで人間、絵を見るのが好きになれるんだから、鑑賞領域の強化を
今後の美術教科の指針に取り入れてもらいたいものだ。


さて。週末、ばたばたと帰省し、恵比寿の写真美術館に参上して参った(変な日本語だ)
恵比寿は道行く人みんな小洒落ていて、すごく都会を感じたのだった。
しかし東京は人が多いナ。

見たのは報道写真展。
報道写真の方向性について、思うこと。

どうやら2種類の流れがあるように見える。
ひとつはドキュメントとして真実を記録してそれを白日の下に開示するもの。
もうひとつは事件性という衣をまといそれを蓑にして写真の形態美を追求するもの。

ドキュメントとしての写真の効用は古くからあるもので、こちらの写真も少なからず構図や美的感覚への希求力が必要になると思うが、
どうも後者の事件性はタイトルだけに留めて写真としての形態美や面白さを追求しました、
というものは報道写真の本質から離れているようにおもう。
訴えてくる「何か」よりも形態とか構成に眼を惹かれる写真は報道ではないと思う。
その意味で報道写真にはとてつも無いエネルギーと不穏さが不可欠になってくる。

でもそれはすべからく我々のレンズへの信頼がまだ死んでいないことを示すものでもある。
その信頼が消え去るときが、写真報道が消え去るときかも。


ちょっとだけ原宿界隈を歩いたけど、もうなんだか町についていけなくなった自分を省みて、
「年を取ったナ…」とも、「大人になったナ…」とも感じた。


同窓会。
高校のクラス会は始めて出席。
いやぁ、埼玉の片田舎で育ったもの同士の会話はかくも弾むもんさね。
高校時代の恩師も元気そうで(というより若々しくなってた?)、
高校時代の同級生は大人びていて、
高校時代の女子学生は結婚を話題にのせ、
高校時代の男子学生は相手がいないと嘆き、
高校時代の僕は7年後に池袋でこんなカタチで再会するとは露ほどにも思っていなかったのであった。

どんな環境にでも、入ってしまえば満足感を覚えるタチではあるけれど、
やっぱりあの第2学年は僕の高校生活の中で特別な時間だったんじゃないかとじんわりと、おもう。


あぁ、高校時代を語ると青春ぽくていいなァ


いいリフレッシュをとってまた上越に戻る。
ここの暮らしだって、悪くない。
お盆まで、ゆったりしっかり進んでいくのだー。おー。

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