2009/01/10

ほんやくコンニャクの精度は?

いやぁ、卒論も終ってほっと一息。
ひさびさに一日本を読むだけで過ごすというゼイタクをしてしまった。

しかしながら自分が思っているよりも本を読む人間ではないので、
なんだか家で本を読むのが落ち着かない。いや、落ち着くんだけど。自宅だし。
なんかはかどらないというか。
いつも通学の電車内で読んでいたから、却ってのんびりしすぎると読めないのかなぁ。

毎度のことながら外国文学が好きなのだが、翻訳の仕事の重要性を感じさせられる。
翻訳ってすごく素敵な仕事だと思う。
しかし、作家の言葉を自身の言葉の方へといわば強引に寄せて来なくてはならないというのは
苦行でもあるように思う。やればやるほど、原語の持つ意義を切り捨てなければならない苦渋の決断を強いられるはずだもの。
それでも、翻訳をしてくれる人がいるから我々は遠い異国の香りを文体に見ることもできるというもの。
翻訳家の創造性に頼ることの無い、純粋な翻訳を生み出すことができれば一生暮らして行けるんだろうなぁという妄想を抱いた。

あと、特に日本語みたいな言語に西欧式の言葉を翻訳すると、どうしても生じる違和的なズレってものがあると思う。
その言語間のズレがまた異国情緒を醸し出すが、そのズレこそが国と国との絶対的な距離な気がする。
そこに生活様式の違いを読めるとこが翻訳の醍醐味かもしれない。
あとこのズレを埋めようとしてるのがグローバリセーションじゃないかと訝っている。
保守的と言われたくないが、固有性というほどの価値が安く変質してほしくない気持ちはある。
もちろん文化は他者との交流によって形成されて行くものだけどね。
その意味で手触りの無いインターネットには心のどこかで疑いを持ち続けている。
ま、それは別の話。

構造主義的になってしまうが、ひとつの物事はその周りのすべてに影響されてできてくるものだから言語一つとっても、その周辺を掘り下げて行かなくてはね。
そういう気持ちで卒論を書き始めたはずなのに、あぁ。

と終った卒論のことをまだ考えてしまうのであった。ふぅ。

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