2008/12/06

でらいゆもん

12月、毎年どれだけの人が思って、言って、書いているかは想像に難くないけど、
それでもやっぱり書いてしまうことがある。

師走です。
他の月では旧暦で言うことなんて滅多に無いのに、12月だけはこうして
しわす、シワス、師走、と声高に叫ばれるのも、去りゆく年への哀愁がそこにあるからだろう。
思いつきで短絡的なことを書いていいのが個人ブログのよいところ、
ということでまぁ勝手に思うんですが、
日本人は「去っていくもの」に非常に美的な感覚を持っているような気がする。

潔く腹を断つ侍の美学なんかもあるけれど、一番わかりやすい例はやっぱり桜でしょう。
もちろん満開の桜は喜ばれるけれど、ほんとに桜が訴えかけてくるのはひとえに、
あの儚くてどことなく風雅な散り様のおかげだと思うのだ。
花の散るに併せて、そこに冬という季節の去り際も僕たちは見ている。
ただ、冬という季節の終わりが春の始まりに連なっているように、
桜は散ってなお、葉桜として趣となり、その緑が初夏を予告するようになる。

師走は慌ただしい。と人は言う。
お師匠さんが西へ東へ、あっちこっちと奔走するから師走だなんて言われる。
そんな12月はまぁある人々にとっては聖夜ということになるのだろうけど、
とりわけ忘年会という行事が盛んに行われますね。
まだ社会に出ていない僕はそれがどんなことをするのかあまりわからないので
推測の域を出ませんが、「忘年会」という言葉に反して、
本当に年を忘れようとはしていないんじゃないか?

忘年会で日頃付き合いのある人々と集まって話すことは、
今年の出来事が主じゃないのか。
忘年会という、人がよりフランクになるお酒の場で、
来年の話を建設的にする人の数よりは
今年あったいろんなことを笑いや愚痴を交えて話している人のが多いんじゃないだろうか。
結局、僕たちは忘年会という名前を借りて去り行く今年を惜しんでいるのだ。
12月の慌ただしさは過ぎてった300余日の凝縮なのかも。

ただし、「去ること」は桜のように新しいものの到来を告げることでもある。
そう考えられるのも、終わりにあまり固執しない日本人らしさがある気がする。
大晦日に息を弾ませて山を上る人たちの心はすでに初日の出にとらわれているのであり、
彼らは陽が登ったそのときに初めて新しい年時の胎動を聞くだろう。
11時59分59秒の1秒後が新年、ということではないのだ。
俗論ながら敢えて比較すると、西洋にとっては終わりの持つ意味は大きい。
終末思想に根ざした終わりの次に来るのは、ただ復活だけということになる。
ここから「1年」という単位の無限生産という時間概念が生まれてくる。
それはつまるところ均質化された時間…という乗り越えられそうでなかなか乗り越えられない
近代の問題のひとつの極地につながっている。
まぁカレンダー的な考え方で大晦日を終わりとするなら、
西洋にとってはその6日前に「誕生」という新しい意味の生産が行われるわけで、
擬似的な歴史の始まりがすでに年末になされることになる。
新たに始まった時間と、復活した時間の始まりのふたつは共に過去に連続性を持たない。
1秒後は新年。

去っていくものの哀愁の中には、去っていった事実、今まさに去り続ける瞬間、そしてほのかに顔を見せ始める未来への全時間的な感じ入り方があるんじゃないかと思うのであった。



…というか、元々書きたかったことは、この写真を見つけて、

「12月です。師匠も走る師走です。僕もそれなりに進むべき道が見えてきた気がします。
でも、まだまだ焦ることもないので、師のように走り回ることなく、
カメのようにゆっくりと歩を進めていこうっと。」

ってことだったはずなのに。どこで脱線した。
そしてウミガメはあんま歩を進めないね。泳ぐもの。

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