2011/02/09
3館レポート
2011年1月22日(土)、東京で日本民藝館、東京都写真美術館、東京都現代美術館の3館を訪れる機会に恵まれた。以下、雑多ながらその感想を記したい。
東大前 日本民藝館
日本民藝館はその名の通り、民藝運動の総本山(?)とも言える場所。建物自体が民藝のあり方を示すような木造りの古民家で、靴を脱ぎ床板をきしませながらの鑑賞は他ではない情感に満ちたものであった。
まず目に飛び込んできたのは北国の着物である。縫い目の細かさに対して、着物それ自身は重厚に出来ている。それもそのはず、これは漁師が海に出る際に着用するものなのだ。北風や冷たい水しぶきに耐えうる頑健さを備えつつも、繊細なスティッチの運びや模様の反復性は、マクロに見るとミニマルアートを観ているかのように錯覚してしまうほど。着るものにこだわるのは全世界各国共通であろうが、日本民族はやはり細やかなお洒落を好むものであるらしい。
ある着物の幾何模様は、イスラム文化圏の建築によくある複雑で嘔吐感を催させるものではなく、デザインとして着物それ自体を駄目にしない繊細な四角形が連なっていた。このあたりの引くところは引くデザインセンスは秘すれば花、の日本的だと言えるかもしれない。
陶器にも印象的なものが多くあったが、今回は瀬戸の古陶が多く展示されていた。真っ白なセトモノ、のイメージからは遠く離れる黄色みを帯びた地肌の石皿は、その無骨な存在感に魅力を感じた。こうした繊細過ぎない、生命感が表出したような道具が柳宗悦の好みなのではないか。日常の機能に根差した道具が民藝の本質であろうが、その実、柳の好みは無骨さをたたえた生命力あふれる道具なのだろう。このことは生命の豊穣を意味する縄文の石偶が展示されていたことにも伺える。
ある種のクラゲを思わせる「緑釉指描文 大鉢」のダイナミックさもこれを示しているだろう。唯一の無念は、河井寛次郎の陶芸を観ることができなかったことだが、春からはまとまった民藝の展示があるようなので、観る機会はすぐにあるだろう。
在オシャレなカルティエ 東京都写真美術館
収蔵作品展 [かがやきの瞬間]スナップショットの魅力
日本の新進作家展vol.9 [かがやきの瞬間]ニュー・スナップショット
所変わって写真美術館。写真については様々な気付きがあったが、簡潔に記したい。まず驚かされたのはラルティーグのスナップ写真。あれだけ洗練されたスナップ写真が1913年に早くも撮られていたということに、今さらながら気付かされた。スナップ写真はカルティエ・ブレッソンから始まったわけではないのだ…。
アヴェドン、エヴァンズ、ウィノグランドといった名手の写真には、スナップという瞬間の芸術が永遠にまで高められるような、記録性と刹那性の共存をみた。優れた写真は少なからずこれを満たしていると思う。Ryan McGinleyという写真家を始めて知ったが、スポーツ写真を競技現実から引き離すその手法には恐れ入った。私自身、自転車レースの写真を撮っていることもあって、参考にしたいと感じるものだった。木村伊兵衛賞作家の鷹野隆大のコメントに、私の現在の問題意識と重なるところがあったので引用しておきたい。
"日々の暮らしのなかで、何となく苛立ち、何となくみないようにしている何かがあって、その正体がこの「カスババ」であったというのはひとつの発見だった。"
鷹野は何でもないのになぜか気にかかってしまう場所、観光的にも生活的にも何の意味もないそんな場所を「カスババ」と名付け撮影している。その写真の多くは何ともない、国道沿いの風景である。しかし場の魅力とでも言おうか、なぜか気にかかる場所、吸引力のある場所というのはカメラを持って街を歩いたことのある者ならば誰でもが覚えがあるはずだ。こうした潜在意識に埋もれそうな場を、カメラを用いて現実に引っ張り出す、これはまさに写真家の仕事であると感じた。
不可解性を楽しめ 東京都現代美術館
東京アートミーティング トランスフォーメーション
東京駅からタクシーで現代美術館へ。面白いほどに、ここでの「美」の基準が前2館とは変っていた。というよりも、「美」とは何か?そんな定型にはめて物事を見てはいないかい?という問いそのものが現代美術の要であると再実感した展示だった。個々の作家で言えば、ヤン・ファーブルの頭像に動物の角が合体した作品や、石川直樹の極限の世界の無(禅と言うと陳腐になるが…)を感じさせる作品は気に入った。
が、個人的に言えば、私はあまり現代美術というものが好きにはなれない。どこか難解で、メッセージ性が強くて、そしてわかったような顔をして観なくてはいけない部屋の広い間取りなど、どうにも落ち着くところがないのである。この落ち着かなさは現代美術のたくらみであるとも言えるだろう。けれどもそれを知っていてでも、私は純粋に美しい風景画を長い時間かけて(目の前で、離れた椅子に座って、あるいは斜めから…)観る方を好む。美の基準に閉じこもった狭い世界に生きていると言われようとも、絶対的な「美」を提示する事無くただ思想的なメッセージ、曖昧さに逃げるような現代美術の作品は好きになれないのだ。
「美」がひとつの神話に過ぎないことが(神話に、「過ぎない」という言葉を続けるのにも違和感があるが…)暴かれてしまった現代において、新たにそれを提示することはほとんど不可能にすら思える。しかしアートが美術であるのであれば、どこかに美しさを感じさせる何かを、作品に込めなくてはならないのではないか。このまま現代美術がこの方向のままに進むと、文化人でありたいと願う一部の人間だけの知的な営みに、アートは回収されてしまう。いまこそ美術は美術館を出たところに、もっと人々の身近なところにあるべきではないのか。
…と元来の現代美術の苦手意識を書き綴っていて、一回りした。民藝の精神こそが、今の美術のあり方に一石を投じることができるのではいか。もちろん、同じように暮らしの道具を見直す、ということだけではただの焼き直しになるが。生活に根付いた単位から美しいものを見出す。これこそが21世紀の現代美術たる可能性を秘めているのではないか、そんな夢想を銀座のビアホールでほろ酔いの中感じたのだった。おそらくはこうした意図を持って活動しているアーティストは大勢いるに違いない。現代美術嫌いを克服して、今こそが新しい美術のあり方に積極的に関与していく時なのかもしれない。
TOKIOの夜はエビスビール
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