2010/07/10

言葉を聞くということ

越南に暮らす友人に喚起されて、たまには言語のことでも。


かつてそれなりに熱心に外国語を勉強したものだけど、どう勉強していいものかわかっていなかった。単語集を覚えたり、構文を暗記したりしたのは、検定試験がそういう知識を要求していたからで、実のところ現地でどういう力が必要か考えるほどの想像力を欠いていたのだ。

いざ現地に言ってみると、言いたいことが頭にあるのにうまく言葉になってくれない、そんなことの繰り返しだった。ぼくの場合、頭に浮かんでくる日本語はどれも名詞の形をしていて、それを外国語に変えようとするとその単語を知らなくて詰まってしまう…。

しかし現地の話し方では、おもったほど名詞を多用しているわけじゃなく、構文の中に話し手のニュアンスが織り込まれていて、むしろ名詞は単純な言葉であることが多かったように思う。

最初はそのニュアンスがわからなくて、四苦八苦。
しばらくすると、言っていることはなんとなくわかるんだけども、その構文がどういう単語で形成されているのか分析しようとすると途端に言葉がばらけてしまって、その構成要素たる単語が拾い出せなくなり四苦八苦。
現地にいた一番最後の時期も、だいたいがこの位の理解度で、恥ずかしくても「○○語ができます」なんて鼻を膨らませて話せる段階ではなかった。

でもふいに思うのは、相手の発話を一文字足らず頭の中で文章化することが「できる」ことなのかということ。もちろん、語学(学問)としては当然必要なことなのだけれど、それよりも違った言葉の聞き方をすることが本当に会話を「わかる」ことなのではないか、と。

その人が発した一連の言葉の連なり、その響きとか、調子とか、あるいは身振りまで含めたその振る舞いすべてがひとつの発話を形作っているんじゃないのか。表情とか、声の大きさとかそういった要素を含めて「聞く」ことで、意味がすとんと通じてくる瞬間ってのが(たとえそう多くなくても)やっぱりある、というのがごく短い異国の暮らしの中で感じたこと。

しばらく外国にいると「聞き慣れる」ということがある。やっぱりなんだか人の言っていることがわかるようになる瞬間がある。それははっとするくらい一気に来る時もあれば、じわじわと気づかないうちにくることもあると思う。ぼくは後者だった(もしかしてまだ来てない?)けれど、留学時代の友人はある日突然、なんか聞こえるようになったかも、と言い、その状況を「耳抜け」と呼んでいたが、なんだか言い得て妙だった。

(蛇足ながらこういう、必ずしも語彙として正しくない日本語でも、すんなり意味が通じ合う瞬間の共通感覚というか、話者同士に言葉の新しい意味が染み込んでいく感覚がたまらなく好きなのだ。さらに蛇足ながら、「言い得て妙」という表現もすごく好きな日本語。意味と言葉のリズムが一致していて詩的で、『お前さん上手いこと言いよるのお!』という褒めるわけでも無いが相手に一定の敬意を伝える粋な表現だと思う)

さてその聞き慣れることについてだけれど、どうやらそれは言葉に触れ続けているからではなくて、その言葉が使われている環境の中に身を置き続けているからではないか、と。言葉は発声された音のみにあらず、その響き方や調子、身振り手振り、表情も含めて相手に届くものだとさっき考えたけれど、それでいくとどうやら、その国の言葉の体系の中に、一定のコードが各感情を表すためにあるのではないか。

つまり…悲しい時に話者が悲しげに話すのは当然のことで、その話し振りを受け手は見ながら言葉を理解する。つまり、sadという言葉やそれに類する言葉を、その人の表情や振る舞いから視覚的に理解することになる。これは第一段階。(そしてこの経験が教科書や書物からはできないがために、「留学」がこんなにももてはやされる時代なのだと思う。)

そうやって悲しい時の話者の振る舞いを幾度も聞くうちに、次第に言葉のトーンの中にその感情のニュアンスを感じることができるようになってくるのではないか、という気がするのだ。まったくの非科学的な仮説(にもなってない)だけれども。それは話し手の話し方の調子ということ以上に、その構文や単語が持っている響きのトーンで、その言語の中でその感情を示す言葉に共通のもの、いわばコードがあるのではないかと思っている。そしてこれというのは言葉を音節で区切ったりしても決して解明できない共通点で、おそらく今の科学的分析では解き明かせない類のものなのだ。そういうひとまとまりの音を感じる時のダイナミズムというか、綴りからは伝わって来ない発音の伝達性みたいなものにぼくは惹き付けられるし、それを信じてもいる。

言葉はもともと発声されるためにあったのであって、書かれるために生まれたのではないはず。無限の言葉の響きを26文字のアルファベット、日本語なら48文字に閉じ込めた段階で、こういう言語のコードは限りなく引っ張りづらくなってしまったんじゃないか。そうして書き言葉から言語を学ぶようになって、人自身がそういう書き言葉に適応する発音をするようになって今の言葉があるんじゃないか。そういう響きのコードは、書き言葉以前(つまり先史ということか)の、人間が海から来たことを漠然とわかる遺伝子レベルの要因と同じような感じで辛うじて、言葉の深層に埋まっているんじゃないか。

そのコードを人との会話の中で身振りや表情といった外観的なものから感じ取っていくことが、言葉をわかっていくことなんじゃないかと感じている。日本語で話す時、相手が知らない単語を使っても(標準語と遠く離れた方言を話された時も)「なんとなく」意味がわかるのは、前後の文脈や、その人の話し方に負うところが大きいが、それを根本で支えているものがその言葉の、言語のコードなんじゃないか。


まぁ、改めて読み返すと、この文章自体が他人が読んでわかってもらえるものになってはいないし、結構トンでる考え方だとは思うけれど、ベルクソンとかを少しばかりかじった身としてはまぁしょうがないことさね 笑

あと、たぶんこういう考え方は構造主義的で、誰かが言っていたことの焼き直し(それも論理性を失った)であることは間違いない。それでも自分が考えたような気になることもまあ大事なことだと自らを納得させる。

自分の考えていることを文章にするという作業を本当にしばらくしていなかったので、まぁこうやってドキドキしながらもこれからはたまに書いてみようかなと思うわけです。


***


ひさびさに、こんな本でも読んでみようかしら。



Michel Foucault "Les mots et les choses"
数ページで挫折した跡があるけど・・・。

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