2009/06/07

ごがつのこと。


↑友人作



自分でも意外なことに、5月病らしきものに冒されていたらしい。

新潟での生活は、悪くないのだが。
なかなか屈託なく自分の考えや嗜好を話せる仲間がいないというのは辛いものがある。
もちろん2ヶ月やそこらでそんなに話せる人が出来るはずもないのだが。
(思い返せば、学部1年の時はほんと友人がいなかったナ…)

フランス生活では、異国の暮らしの連帯感か同郷のよしみか、
それとも単にウマが合ったのか(そうだったのなら奇跡的なことだったと思う)、
自分が楽にいられて、それでいて話に張りがあったことを思い出す。

僕がフランスの習慣の中でいいな、と思うものにfêteの習慣があって、
これでお酒を飲みながらいろんな人と、毎週話したりすることで、
その人がどんなことを考えているとか、どんな人なのか、というのがわかる。
そうじゃなくても気軽に、誰かの家に遊びにいく感覚や、
誰かを招待する感覚が人と人との距離を縮めてくれたようにおもう。

日本の新歓とか飲み会はいただけない。
結局数人だけが話の中心となって、つまらない話に愛想笑いをかましたりしなくちゃならない。
自分がつまらないと思った話を周りがウケているのを見るだけでも、精神衛生がよろしくならない。
結局固定された席で2時間の無為を過ごす。なんて無為。

まぁそんな自分の順応性の無さを棚に上げて、周囲に馴染めない日々を送っていたのだが、
そういう時ってのは、自分が意志のある生き方をしていないことに起因していることが多い。

この2ヶ月弱は意志をもって何かに臨むことが少なかったように思う。
つくづく自分は俗物だと感じるわけだ。

しかし、そういう不満は無いのになにか視野が鬱屈として晴れない時にこそ出会いがある。
というか、日々はきっと出会いで満ちているはずなのだが、人はこういう時にしか気づけないのだと思う。
この周期で僕が出会ったのは3つのこと。

ひとつはどこまで自分を表現者として認められるか、を問う道具。
ふたつめは既に40年も前に書かれた、自分のまとまらない考えを強い言葉に置き換えてくれた哲学者。
みっつめは受動を能動に変える意志の必要さ。

そんなことと出会っている中で、どうしても歩いてみたい国が出てきた。それはヨーロッパでもアメリカでもない。
異国を歩きたい。
異物としての疎外感と、自己としての認識が混ざり合うあの感覚の中に身を置きたい。
その感覚を時間の中において眺めてみたい。

なんか結局、今も病んでるような文章でイヤだわ 笑
これからは否定形を使わないで書こうっと。


人形浄瑠璃をごゆるりと楽しんでみたり。

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